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市田柿の店柿八
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南アルプスと柿すだれイメージ 市田柿の店「柿八」は、GI(地理的表示保護制度)認定の「市田柿」を自ら栽培・加工・販売する、戸田屋が運営する市田柿専門店です。

市田柿とは?

自然の恵「市田柿」

昔懐かいい柿すだれの風情 ・「市田柿」は、南信州、伊那谷の特産品として古くから栽培、生産されている干し柿です。
「和菓子の甘さは干し柿をもって最上とする」(干し柿を和菓子の甘さの基準にする)という言葉が和菓子の世界にはありますが、干し柿の絶妙な味わいは、日本人の舌に馴染むものとして古くから好まれてきました。
・干し柿にはいくつか種類がありますが、中でも「市田柿」はその味に定評があります。
表面は糖分の結晶に白く覆われ、ひとくち食べれば、目に鮮やかな透明感のある果肉、独特のもっちりとした食感、他種類の干し柿には出せない上品な甘み…それらが私たちを魅了します。自然の恵みがギュッと詰まった「市田柿」は、高級贈答品からコタツのお供まで、冬の味覚として親しまれてきました。さらに近年では、食物繊維やポリフェノールなど、栄養素が豊富なことでも注目を集め、世界へも進出しています。

信州を代表する市田柿

・「市田柿」は、南信州の "地域団体商標" に認定されています。
地域団体商標は、全国の資源、特産品の保護や振興を目的に、(地域名+商品・サービス名>)からなる "地域ブランド" を商標として認定するもので、「市田柿」は2006年、発祥の地である"市田"という地域を含む飯田・下伊那地域の地域ブランドとして、信州で第一号の認定を受けました。柿は、北海道と沖縄を除く全国で栽培されていますが、干し柿の出荷量は信州が全国一、その中でも「市田柿」は県内一の出荷量を誇ります。(2011年現在)

甘柿と渋柿と干し柿

黄色く色づいた市田柿は渋柿です。 ・柿の種類には、生のままで甘く食べられる甘柿と、渋くて食べられない渋柿があります。
「市田柿」を代表とする干し柿は、渋柿を干して乾燥させることで渋を抜き、甘さを出したものです。柿は古くから東南アジアなど世界に分布していましたが、野生種としてはもともと渋柿しかなく、自然交配の偶然により甘柿が出現したと考えられています。その後、品種改良により様々な甘柿・渋柿が生まれました。
現在栽培されている渋柿の前身は、仏教文化や人々の交流と共に、飛鳥・奈良時代に中国から伝わったといわれています。

市田柿はどうやって作るの?

市田柿の収穫 ・市田柿の作り方を紹介します。まずは、市田柿畑の一年を紹介します(図1)。
柿の収穫は秋ですが、一年間を通じて仕事があります。
冬の寒い時期も、夏の暑い時期も、休まず手入れをすることで、おいしい市田柿ができあがるのです。
・そして、市田柿の干し柿の作り方です(図2)。
収穫から出荷までの約1ヶ月半〜2ヶ月がいちばん忙しい時季です。市田柿は "農家の冬のボーナス"とも言われるほどで、贈答用に箱詰めされたものはお歳暮やお年賀の贈答品に使われることが多いので、年末年始にむけて市田柿農家は繁忙期を迎えます。

【 図1:市田柿畑の1年 】

市田柿畑の1年
【参考文献/参照HP】
「市田柿のふるさと」市田柿の由来研究委員会 監修(2009年)
「柿の文化誌ー柿物語ー」岡田勉 著 (2004年)
JAみなみ信州 HP ( http://www.ja-mis.iijan.or.jp/ )

【 図2:市田柿の干し柿づくり 】

市田柿の干し柿づくり
【参考文献/参照HP】
「市田柿のふるさと」市田柿の由来研究委員会 監修(2009年)
「柿の文化誌ー柿物語ー」岡田勉 著 (2004年)
JAみなみ信州 HP ( http://www.ja-mis.iijan.or.jp/ )

市田柿の歴史

市田柿の由来

市田柿イメージ ・「市田柿」へと繋がる干し柿加工の歴史は長く、古くから作られていた干し柿である「串柿」についての記述は鎌倉時代の史料に登場するといわれており、渋柿の栽培、加工がその頃から既に行なわれていたことが伺えます。「串柿」は、「立石柿」という渋柿の皮を剥き、串に刺して干したもので、江戸時代まで盛んにつくられ、年貢として納められたとも、江戸や三河へ出荷されていったともいいます。
・江戸時代の後期になると、「市田柿」の元となる「焼柿」が登場します。江戸時代後期、市田地域では伊勢神社への崇拝が始まり、特に信仰の篤かった下市田村の人々は、伊勢神宮より分霊を勧請し、伊勢社と呼ばれる分社に祀りました。
その伊勢社には一本の柿の古木があり、この柿の木の実は焼いて食べるととてもおいしい、と評判になり、その食べ方から「焼柿」と呼ばれましたそのおいしさはたちまち人々に広まり、「焼柿」は接ぎ木によって村中に植えられました。
伊勢社の境内につくられた屋敷(伊勢屋敷)には寺子屋の師匠が住んでおり、その人物が寺子を通じて「焼柿」を広めたともいわれています。それまで村で植えられていた「立石柿」は、「焼柿」を接ぎ木する時の台木として使われ、次第に数が少なくなっていきました。
「焼柿」は、「立石柿」よりも実が一回り大きく、渋が抜けたときの甘味が強いといわれています。
その後、ヘタの部分に縄をかけて吊るして乾燥させるという現在の干し柿の方法が広まってくると、その製法は「ころ柿」(枯露柿、転柿)と呼ばれるようになります。

市田柿という名前

市田柿 ・明治時代になると、飯田・下伊那地域には農業試験場が開設され、柿だけでなく、りんご、梨、桃などの品種改良、栽培試験などが積極的に行なわれ、飯田・下伊那地域は全国有数の果物生産地へと成長していきました。
その中でも柿は、渋柿だけでも下市田村内に500本ほどあったといい、その当時、下市田村の戸数が300戸あまりであったことを考えると、実った柿を自家消費していた時代としてはとても多く植えられていました。
・そんな中、「焼柿」の普及に尽力する人々がいました。
上沼正雄(かみぬま まさお1884〜1937)は、新たに土地を開墾して「焼柿」を200本ほど植え、さらなる発展に貢献しました。植えた柿の成長を待つ間、柿の産地として有名であった山梨県、福島県などを視察し、殺菌方法、乾燥方法…など商品化への研究を重ねたといいます。
・その後、1921 (大正10)年には橋都正農夫(はしづめ まさのぶ 1880〜1943)が、中央市場への進出を前に「焼柿」を「市田柿」と改称する申請を県庁に提出し、現在の「市田柿」の名前が生まれました。

市田柿の発展

ジュウシーで濃厚な果肉の市田柿 ・昭和の時代、太平洋戦争が始まると、果樹は贅沢品とされたため、新しく植えることが禁止され、強制伐採なども行なわれましたが、食料が不足していた戦中・戦後は、糖分補給をするために「市田柿」は珍重されました。戦時中の1943(昭和18)年には、皇室へ献上したとの記録も残されています。 ・終戦を迎え、果樹の生産・販売に関する規制がなくなると、果樹栽培はまた盛んに行なわれるようになりました。
この頃に病害虫防除、剪定など栽培技術が確立・向上してきたことで、年による変動の少ない、安定的な収穫を得られるようになりました。
さらに農業試験場は硫黄薫蒸(いおうくんじょう)の技術を研究することで、干している時のカビを予防して果肉の色を鮮やかに保つことに効果を出し、また優良な果実をつける樹を選定して増やすことで、"果実の大型化"を望む市場の声への対応をめざしました。
・「市田柿」の発展には、皮むきの技術向上のこともはずせません。
柿は収穫から出荷するまでが2〜3ヶ月ほどの間に一気に行なわれるので、家族、親戚、近所の人々で助け合って行なわれてきました。
昼間収穫し、夜にむいて、翌朝吊るして干す…収穫した後の皮むきは、柿が熟してしまう前にむかないといけないので大忙しです。
・戦後までは、「千重(せんかさ)」と呼ばれる"柿の表面に沿うように曲がった刃物"で、一個一個を手に取り、地道に皮をむいていました。
その後1945 (昭和20)年以降になると、柿のヘタ部分を針に刺して横向きに固定し、ハンドルを回して柿を回転させながらピーラーでむくという機械が開発され、作業性の向上がみられました。そしてさらに1965 (昭和40)年以降、回転部分にモーターを搭載した自動皮むき機が開発され、1994 (平成6)年には、柿を機械に置くだけで皮むきを自動で行なえる全自動皮むき機が登場しました。全自動皮むき機が発売されると、導入して生産規模を拡大する農家もみられました。

市田柿の衛生管理

・近年、針で刺すタイプの皮むき機では、針穴のところからカビが侵入する恐れがあるということから、針を刺さずに皮をむく、脱針式の皮むき機の使用が奨励されており、例えばJAみなみ信州では、「2012 (平成24)年から針式と脱針式について製品を区別して取り扱い、2014 (平成26)年度からは脱針式の製品のみ取り扱う」旨の通達を出しています。
・他にも、「市田柿」を干している時の衛生管理にも、意識向上が見られるようになりました。例えば、柿を吊るす糸についても変遷が見られます。
1945 (昭和20)年頃は、ワラ縄が使われていました。その後、畳糸、凧糸、と変化し、1965 (昭和40)年頃になるとナイロンの糸が使われるようになりました。
柿を並べて吊るす様子は「柿すだれ」と呼ばれ、家の軒先でゆれる「柿すだれ」は古くから伊那谷の秋の風物詩として親しまれてきました。
・2000 (平成12)年代に入ると、作業者、作業場の衛生管理がますます徹底されるようになってきました。
原料柿の保管方法、皮むき作業場の衛生、干し場の環境、手洗い場など設備の様子、帽子・手袋着用の義務化、それら毎日の作業者と作業場の状態をチェックして記録を付け、出荷の際に提出する…など、さまざまな部分に意識が向けられました。
・このころから、軒先で柿を干す「柿すだれ」は衛生的でない、ということになり、次第に見られなくなってきました。
より安全、より安心な商品をつくるために、今では柿干し用の乾燥設備が整った建物内やビニールハウスで干されるようになりました。

【参考文献/参照HP】

「市田柿のふるさと」市田柿の由来研究委員会 監修(2009年)
「柿の文化誌ー柿物語ー」岡田勉 著 (2004年)
JAみなみ信州 HP ( http://www.ja-mis.iijan.or.jp/ )

市田柿と柿八

未来への継承

・「市田柿」は、南信州の "地域団体商標" に認定(2006年)されています。認定された翌年、「市田柿ブランド推進協議会」が設立され市田柿の定義を定め、生産量向上・衛生意識向上のための研修会、販売促進のためのPR活動など、さまざまな取り組みが積極的に行なわれています。
しかし一方で「市田柿」は、生産者の高齢化、後継者不足といった将来性の問題に直面しています。
衛生管理徹底や品質向上のために施設や新型機械への投資をすることに不安を抱えている生産者は少なくありません。
また、天候に左右される毎年の生産量、生産者ごとに異なる品質のバラつきといった問題も、「市田柿」がこれから更に発展していくためには考えていかなければならない問題です。
・そんな中、高齢者など手が足りない生産者の問題解決のために、生産者に生柿を持ち込んでもらって皮むきを引き受け、剥いた柿を生産者に返す、という生産方法が地域の団体から始まりました。生柿を買い取り、干し柿生産・出荷までを行なう農業生産法人も現れます。
他にも、柿の栽培をやめた生産者の農地を他の農家へ斡旋する制度もできて、実際に農地を借り受け、生柿の生産から干し柿の出荷までを行なうことも始められています。
地域が一体となって、特産品「市田柿」を守り、受け継いでいるのです。

市田柿の故郷と柿八の市田柿

市田柿園と南アルプス ・市田柿の店 「柿八」では、自社農園と、飯田・下伊那地域の農家で栽培管理・収穫された、安全で安心な「市田柿」を選別し、皆様にお届けしております。
・「柿八」の自社農園は、南信州・高森町にあります。
「市田柿」発祥の地である高森町(旧下市田村を含む地区)は、西に中央アルプス、東に南アルプスを仰ぎその谷間を流れる雄大な天竜川の恩恵に預かる伊那谷にあります。 天竜川の西岸に位置する河岸段丘にて「市田柿」の栽培・加工が行なわれているこの地域は、「市田柿」を干す冬の時期になると、おいしさを引き出すといわれる"この地域自慢の" 川霧が、風が弱く晴天の朝に発生します。
この川霧は、干してある「市田柿」をやさしく包み、湿度と温度を適度に保つことで徐々に乾燥させ、渋くて食べられなかった生柿を甘く柔らかな「市田柿」へと変えていくのです。

柿八の市田柿農園

市田柿と柿のれん ・「柿八」の自社農園の市田柿の畑は、現在約3.5ヘクタール、約1030本の木が植えられています。
柿の栽培をやめてしまった農家から木と畑をお借りして栽培している場所と、新しい土地に苗を植えたところがあります。
そのため、3年目くらいのまだこれから収穫が増える若手の木から、すでにたくさんの収穫がある木と、幅がありさまざまです。
手放されようとしている市田柿の畑を守り、受け継いでいくことに少しでも貢献できたらと思っています。
そんな自社農園と地元契約農家の「市田柿」を、どうぞたっぷりとお楽しみ下さい。

【参考文献/参照HP】

「市田柿のふるさと」市田柿の由来研究委員会 監修(2009年)
「柿の文化誌ー柿物語ー」岡田勉 著 (2004年)
JAみなみ信州 HP ( http://www.ja-mis.iijan.or.jp/ )

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